Twitter(現”X”)ではすでに報告していましたが、私たちがだしているミニコミ誌『レーテ』第3号を5月に発行しました。俗に”3号雑誌”という言葉もありますが、なんとか3号をだし、まだまだ油断はできませんが4号の見通しがついてきています。
3号の内容は、関西コミュニズム研究会blog
<運動>・運動史・思想史/連絡はTwitter(@crisis_cl)または『レーテ』配布者まで
2023年8月9日水曜日
『レーテ』第3号(2023年5月発行)&次号について
2023年6月15日木曜日
自公・維・国がすすめるLGBT差別増進法案に 反対!6/22京都スタンディングへのよびかけ
記事タイトルの通りです。6月15日には参議院内閣委員会で可決してしまいましたが、その前に決めた日時=6/22、差別増進法反対、セクシュアルマイノリティ差別反対、トランスジェンダー差別反対の意思表示をしっかりやります。AWCyouthさんと共同でよびかけをしております。以下、ビラの主要文面を転載します。
自公・維・国のLGBT差別増進法案に反対します!
セクシャルマイノリティ差別反対!
トランスジェンダー差別反対!
NO LBGT Promotion of Discrimination Bill!
STOP DISCRIMINATION AGAINST SEXUAL MINORITIES!
STOP
HOMOPHOBIA!
STOP
TARNSPHOBIA!
現在、国会でLGBT理解増進法案が審議されています(6月14日現在)。しかしこの法案は、『多数者への配慮』が必要だとして、「全ての国民が安心して生活することができるよう留意する」という条文が追加修正されました。当事者や法学者は「『多数派=マジョリティ』が安心できる範囲でしか理解を広げないという解釈が可能になる」「性的少数者への理解増進の取り組みに対し、誰かが不安だと訴えれば阻止されてしまう恐れがある」と指摘し、警鐘を鳴らしています。実際、自民党の議員たちは「この法案はむしろ自治体による行き過ぎた条例を制限する抑止力が働く」「地方や民間団体が過激な方向に走らないよう歯止めをかける、規制するための道具としてLGBT法案が必要」だと述べています。この法案は地方自治体、学校などで、セクシャルマイノリティ当事者の差別や困難をなくす取り組み自体を「規制」する道具に使われる恐れが高いです。もしもこの法案が通ればそのような差別的な「規制」に対して正統性や法的根拠を与えてしまいます。法案の目的は理解増進であったにもかかわらず、『多数者への配慮』の内容が盛り込まれたこと自体、理解増進ではありません。また、この条文は、セクシャルマイノリティが多数派の人々に迷惑をかける、加害をするような存在であるという差別的な考えを前提にしています。私たちは、この法案が、日々深刻な差別の中で生きることを強いられているセクシャルマイノリティの人々の生を今以上に困難にするものだとして、強く反対します。そもそもセクシャルマイノリティの人々は今の日本社会の中で、既にマジョリティに対する配慮を強制されています。だからこそセクシャルマイノリティの人々への差別を強化するのではなく、差別を禁止する法律や多数派が差別をやめることこそが真に必要なはずです。セクシャルマイノリティの人々への差別に反対の声を上げて行きましょう。誰もが生きられる社会を求めて、声を上げて行きましょう!
日時:6月22日(木)19:00-20:00
場所:三条河原町(商店街前)
呼びかけ:AWC Youth・関西コミュニズム研究会
協賛:近畿大学アナキズム研究会 立命館大学民主主義研究会 関東コミュニズム研究会
当日まで賛同募集中です!団体・個人(匿名可)。以下の連絡先まで。連帯メッセージも募集します!
連絡先:awcyouth21@gmail.com(AWC Youth) 20212022ettou@gmail.com(関西コミュニズム研究会)
当日参加に当たって
①私たちは障害者差別、外国人差別、部落差別、セックスワーク差別、女性差別など、全ての差別に反対します。誰もが知らず知らずのうちに差別的な発言や誰かを傷つけてしまう言動をしてしまう可能性があります。そういった時は、お互いに話し合い、より良い運動を目指していきましょう。
②見た目で判断しないようにしましょう。ジェンダーや国籍、民族などは見た目ではわからないものです。
③アウティングはやめましょう。見聞きしたジェンダーやセクシュアリティを本人の許可なく第三者に話すことはやめましょう。もしもしてしまった場合は、すぐに本人に謝罪しましょう。
④ 呼びかけ団体は報告の為に写真撮影を行いますが、参加者の顔は隠します。ただし街頭行動である以上、通行人の方々が写真や動画を撮影しSNSなどに投稿することはありますので、顔を撮られたくない方々は、マスクや帽子などで秘匿して下さい。
トランス女性が女性スペースを脅かすという差別・デマに関して
・まずトランスジェンダーとは生まれた時に割り当てられた性別と異なる性別を生きる人々です。
・トランス女性、トランス男性、男性・女性の枠組みに当てはまらない、又は流動的であるノンバイナリーの人などがいます。
今回のLGBT理解増進法案を巡って、法案が通れば、女性トイレや女性浴場に「心が女」だと言えば誰でも入ることが出来るようになり、「女性スペース」が無くなる・性暴力が増えるなどのデマが拡散されています。まず法案には、女性トイレや女性浴場のルールを変えましょうとは書かれていません。また、そもそも女子トイレなどに入る際に、いちいち性器を誰かに見せて許可を得ることなどはありませんから、トランス女性の中には既に女性トイレを利用している人もいます。しかしトラブルを恐れて「誰でもトイレ」を利用している当事者も多く、女・男別のトイレしかない場所で困っていることも多くあります。そのためにトランスジェンダーの人々は水分を控えて脱水症状になりやすい、我慢しすぎて排泄障害になることが少なくないというデータもあります。また、全国約60の自治体では、すでに性的指向・性自認による差別を禁止する条例が施行されていますが、こうした自治体で、公衆浴場等の利用ルールが変わった、あるいは社会が混乱したという事実は報告されていません。トランスの権利が法的に認められた国々で性犯罪が増えたという事実もありません。むしろトランス当事者は性暴力被害に遭う確率が高いことがわかっています。こうした事実を無視し、徒に人々の不安を煽るデマ・差別言説は、社会に分断をもたらし、トランスジェンダーに対する差別と憎悪を助長するものであり、断固として許すことはできません。
女性として生活するトランス女性と、性暴力加害者とを重ね合わせ、女性の安全を脅かす存在だと言っている人々は、トイレやお風呂等の盗撮が起きていると指摘しています。ですが、両者は実は全く異なります。犯罪をするために変装をしている人と、トランス女性として日常を生きている人は別人です。盗撮する人の中には変装をしないでやってくる人もいますし、シス女性(非トランス女性)が盗撮をしているケースもあります。「紛らわしい」「性犯罪者と見分けがつかない」という理由でトランス女性を女性専用スペースから排除しようとしたり、攻撃したりすることは、あるカテゴリー・属性全体を攻撃する差別に他なりません。性犯罪者には毅然として処罰を求めて行けば良いのです。また、シス女性(非トランス女性)だけのスペースが本当に安全かと言えば、そうではありません。シス女性が性暴力加害者になることもあるのです。ジェンダー・性自認・性的指向などにかかわらず、誰もが性犯罪加害者にも、被害者にもなりえます。トランス女性は女性であり、トランス女性は女性として権利が保障されるべきです。私達はデマに傷つけられ、深刻な差別にさらされている当事者と連帯します。性自認・性的指向や性表現などにかかわらず、全ての人が生きられる社会を目指しています。全ての差別・性暴力のない社会を目指して共に声を上げて行きましょう!
2023年5月4日木曜日
[転載]映画『月夜釜合戦』上映会&トークのお知らせ
2023年5月28日に京都で行われる『月夜釜合戦』上映会と、佐藤零郎氏(『月夜釜合戦』監督)&村上潔氏(女性史研究者)のトークを兼ねた企画のお知らせビラを転載する。私たちも参加予定。以下ビラから。
■日雇い労働者の街として知られる大阪・釜ヶ崎――近年は福祉化・高齢化の進む「あいりん地区」として有名――は、エネルギー産業の転換に伴う炭鉱からの離職者や、都市化の進む農村を離れる者、諸々の事情からこの地に流れ着いた者までを、流動的な労働力として集約し、高度
経済成長期以来のインフラ整備に大きな役割をはたしてきた。
■行政は<男性・単身・労働力>供給の場として釜ヶ崎を位置づけてきたが、長い歴史でみると、この地域は家族連れも住むところの「スラム」 であり、また、見えにくいかもしれないが、釜ヶ崎を出たり入ったりしてきた/している人々もいうまでもなく<(日本人)男性・単身・労働力>に還元しえない存在である。そして、ときには行政・資本が求めるこうした役割に個人の身体レベルから集合的な共振関係にいたるまで、(目にはみえにくくても)抵抗(の試み)がなされてきたはずである。
■労働市場の規制緩和・世界的な資本蓄積行き詰まりから「釜ヶ崎が全国化した」と言われて久しい。行政・資本は、均質的な労働市場から均質的な商業空間へと釜ヶ崎に求める役割の転換をはかり再開発と野宿者排除を進めている。野宿者に大阪府が立ち退きを求める裁判も最高裁にまで至っている。釜ヶ崎で生きてきた人々は存在も記憶も何重にも存在を消されようとしている。
■そこで、映画『月夜釜合戦』――再開発下の釜ヶ崎を舞台にした喜劇であり、そこにはセックスワーカーやいわゆるゴロツキにいたるまで雑多な人々がうつしだされ、走り回る――の上映、そして監督・佐藤零郎氏と、ジェントリフィケーションや社会周縁部の女性の自律的実践に焦点をあてた論考がある女性史研究者の村上潔氏のお話を聞く本企画を、野宿者支援などに関わる有志で行うことにした。
■先述した釜ヶ崎の事態をとらえ、そこで排除されようとしている人々と共にあるために、そして、かつて「釜ヶ崎から世界が見える」とも言われてきたが、同時に「世界から釜ヶ崎を見る」ために私たちは何をできるかを考える機会としたい。
日時・2023年5月28日(日曜日)17時から
料金・1000円
場所・キャンパスプラザ京都・第4講義室
主催・釜ヶ崎に連帯する学生の会
2023年4月7日金曜日
昨年6月以来の活動報告
昨年6月以来の活動報告
『レーテ』第2号を昨年6月に発行して以来、社会状況においても我々においてもたくさんのことがあり、予定よりも第3号の発行は遅れてしまった(4月半ば発行予定)。ここでも我々の活動のすべてを報告はできないのだが、おおまかに昨年6月以来の活動を記録しておく。
① 田上孝一『99%のためのマルクス入門』(晶文社、2021年)オンライン読書会
マルクス研究者であり、また動物倫理も研究し、私たちも影響を受けたヴィーガンとしての実践もしている田上氏のマルクス入門書をその場で読み進めながら、ときにはかなり脱線しながらも議論している。昨年秋ごろにはじめ、2023年4月頭現在、10回を数えている。かなり平易な入門書のためだろうか、マルクスの引用にあたって該当文献の書物頁数が書かれていないのであるが、どの部分の引用なのか調べるのも興がある。不定期開催。
② キム・ミレ監督『狼をさがして』自主上映会in大阪(2022年9月24日)
東アジア反日武装戦線のメンバーとその足跡を追った同作上映運動事務局がミニ自主上映会運動を呼びかけていたのに応えて、以前から反日武装戦線の問いに関心を抱いていた我々で上映と、併せて、獄中メンバーの救援に長年携わってきた平野良子さん(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)のお話を伺う企画を主催した。当日は、映像表現に即した発言(松田政男「風景論」的なものとの比較や、青森・ねぶた祭りのシーンなどに武装戦線メンバーの視点が非常に現れているのではないか等々)、いまだに獄中に囚われている人々がいること、救援運動の重要性の確認など参加者から積極的な発言・議論があった。また、平野さんからは反日武装戦線との出会いから救援運動のあり方まで貴重なお話を伺った。
メンバー各自の関心に基づいて、まとめたものの発表や、その他論文を読んでいる。現時点では、「都市再開発と野宿者排除」「東アジア反日武装戦線と「自己否定」の論理」などで学習会を行った。
2023年3月18日から21日にかけて大阪で『資本論』1巻1章「商品」を熟読する合宿を行った。そして、それらをふまえて『資本論』に関するオンライン学習会を行い、参加者と話し合って継続的に『資本論』を読む会を開催することに決まった。4月開始予定。
今後も『レーテ』の発行は継続する。当初は具体的な発行頻度を書いていたが、今後は我々のペースではやくもなればおそくもなるでかまわないのではないかと考えている。そして、このブログへの投稿はもうすこし積極的にしていく予定である。
関西コミュニズム研究会は、それぞれが諸々の社会運動に関わっているものが多く、一定の領域で共同活動をしており、赤黒系アフィニティ・グループ的性格ももっている(なお、読書会のみの参加を排するものではない)。なんだかんだこのあたりで出費が多くなり、『レーテ』を受け取った時などにはカンパをいただけると幸いである。
活動形態は変わってきたし、少しずつ変わっていくだろうが、実践、研究会、発信、交流が軸である(外からみると、時期によってこの4領域のどれかに比重がかかっているようにみえるだろうか)。内容としては我々自身が常に議論していて、それでも確定などしていないのだが、書き出してみると漠然と、社会構造の周縁部からの視点というテーマが浮かび上がってくると思う。今後の力点では、交流の場面において、ヴィーガン志向の仲間が多くいることもあり、大量生産大量消費システムへの一般的違和感をいだくのみならず、そうしたシステムを生産・再生産している個々人のふるまいを問いなおす倫理的実践として、交流会では例えばメシをなるべく自分たちでつくったり、最低限の前提としてチェーン店を使わないなど意識的にしていきたいと考えている。また、研究会と実践や交流とも交差する領域としての小規模の自主映画上映会には、我々が主催と銘うってない場合もこれまでやってきたが、積極的継続的に取り組んでいくつもりである。それから名称に「関西」とついていて(「コミュニズム」も我々の間で論争含みなのだがさしあたりおいておく²)、実際関西に多くの活動領域とメンバーがいるのだが、関東など他地方にもメンバーがいることにも留意されたい。(U)
註
1.以下の記事が解説も含めて参考になる。「[翻訳]アフィニティ・グループ入門」
2.不可視委員会がコミューン主義について述べていることは参考になる。「コミューンを成立させるもの、それは、ひとつの都市ないし住民たちが交わす、共に在りつづけるという相互の宣誓にほかならない」「コミューンとはつまり、共に世界と対峙していこうと交わされる協定であり、自分たちの力を自分たちの自由の源とすることである。目指されているのはなんらかの実体ではなく、関係の質、世界内を生きる一流儀である。」(不可視委員会[訳=HAPAX]『われわれの友へ』、夜光社、2016年)。
2023年3月24日金曜日
『叫びの上に』を観て
『叫びの上に』(留学同京都総合文化公演2023)を観て
関東大震災が朝鮮人と日本人にとって、つまり各々の歴史において全く異なる位置付けにある事はもはや言うまでもない。日本人にとっては、防災の重要性を啓発する教訓として、朝鮮人にとっては、決して忘れる事のできない日本人社会や国家の暴力の発露として、記憶されているはずだ。関東大震災から100年目となる現在、この認識の差異は益々強くなっているように感じる。歴史の否定や「井戸に毒」のSNS上でのミーム化を鑑みれば、あの時、朝鮮人や中国人に降りかかった暴力は、日本人にとってはもはや他人事になっていると言っても過言ではない。この演劇『叫びの上に』は、日本社会におけるニヒリズムや忘却の蔓延によって開いた日本人と朝鮮人の認識の空隙を埋め、歴史の改竄や閉鎖的な日本史から再生産される暴力に抑圧される朝鮮人に勇気を与えてくれるように私は感じる。
この演劇は、主に、朝鮮人の民族性の回復、解放が主題として描かれている。演劇の主人公、キム・アムスは東京のとある飯場へ食い扶持を求めやってくる孤独な労働者。彼は、両親を3.1独立運動の弾圧によって、仲間の労働者を信濃川虐殺事件によって失ったので、朝鮮人である事にトラウマを抱いていた。しかし、演劇の前半を通じ、飯場の労働者である独立運動家の学生や飯場の住人であるリ・スナとの出会いと夜学での朝鮮語学習を通し、朝鮮人としての自己を受け入れられるようになる。しかし、このような幸せな時間は長続きしなかった。演劇の後半では、関東大震災での虐殺が描写される。これにより、彼の仲間であった運動家は軍人に「取り調べ」のため拉致され、リ・スナは自警団に虐殺される。アムスも自警団の一員に追い詰められ、「15円50銭」と言うよう強要される。しかし、アムスは朝鮮人である事を判別する合言葉を発することなく、朝鮮人である事に「開き直る」。彼はその後、襲撃をかわし、その場にへたり込んでいた別の自警団の人間に「毒を撒き、火を放ったのはお前ら日本人だ」と言い、その場を去る。
このように主人公アムスを中心とした物語は朝鮮人の解放が軸となっている。日常的にヘイトスピーチやヘイトクライムに晒され続ける朝鮮にルーツを持つ人々にとって、この物語はフィクションではあるが、抑圧とそれに対抗する主体化の過程をはっきり描いているという点において、この上なくリアルで切迫したものに映る。
ただ、この演劇で重要な役割を果たしていた人物がもう一人いる。労働者であり社会主義者でもある日本人のカワイだ。彼はこの演劇においては、主人公格でもないし、アムスと深い交流を持つわけでもない。また、日帝の中枢に位置するような人物でもない。しかし、彼の存在は昨今の在日コリアンを取り巻く不安定な情勢を考えると、重要であるし、この演劇のもう一つの主題のように思える。
カワイは、社会主義者としての立場上、前述した独立運動家の学生から幾度も、日本の無産階級と被抑圧民族としての朝鮮人の連帯のため、運動において、朝鮮人と日本人の戦線を組むよう懇願される。しかし、彼は何の迷いもなくその要望を断り続ける。曰く、「自分達は今の立場をコツコツ努力して積み上げてきたが、その成果を朝鮮人の運動のために消化したくはない。同じ無産階級でも日本人と朝鮮人を取り巻く環境は違うから、お前らはお前らで運動をやれ。植民地支配は国家権力が全て悪いのであって、自分達に対し、連帯を受け入れないからといって、糾弾してくるのは筋違いも良いところだ。第一、朝鮮人の運動は過激で、後先を考えられていない。」(大体こんな感じ)。彼の言表からは、典型的な「停滞論」に代表されるような朝鮮人蔑視が滲み出ている。また、無産階級である事を理由に民族・人種間の間に交差している権力を認めようとせず、全て資本家階級や国家権力の問題に収斂させる。特に、資本論を読む独立運動家からそれを取り上げ、「ほぅ、資本論を読むとは、感心だな」と偉ぶった態度を取るシーンは、階級内の亀裂をマイノリティが日頃から感じる違和感として、絶妙に表現している。社会主義者カワイには彼にとっての「聖典」である資本論こそ絶対であり、交差する権力には見向きもしない。これらの不快な見下した発言と態度によって、日常の中の差別に翻訳されるこの不正(交差した権力)という階級内の分断を、この演劇は告発するのだ。
話を戻すが、この演劇ではこのように批判的焦点は日帝の権力者だけでなく、抑圧民族としての日本の社会主義者にも当てられる(普通の日本人でなく、社会主義者という部分にこだわりを感じる)。そして、この抑圧民族としての性格は演劇後半、つまり大震災直後の描写で悲劇的な形として発露する。カワイも自警団に加わるのだ。行政的な力が優先される戒厳令下の東京では、朝鮮人が敵として中枢を起点に、喧伝され、民衆の人種主義的なイデオロギーが軍隊と共に組織された。そして、カワイも間接的に、無意識にであれ、国家権力に動員された。劇中において、彼にとって、目の前の朝鮮人を殺す事と狭義の意味での労働者の闘争を貫徹する事は矛盾しない。しかし、そこに抑圧民族としての自己に向き合わない人間の、権力(国家だけでなく構造も)になし崩しに客体化されるという意味での脆さがあるのではないだろうか。戦後、在日コリアンや中国人を主権の外に置き、排除する事によって、国民国家としての「同質性」を強化した日本では、日本人の中のこの脆さが一層顕著になったように思われる。しかし、この脆さに無関心な日本人は多い。左右を問わず、「反差別」を公言しているかどうかを問わず。この演劇におけるカワイの存在は、このような日朝の連帯の妨げとなっているものを明らかにする。
以上のようにこの演劇には日本人によるマイノリティへの抑圧と朝鮮人としての主体化という2つの軸がある。帝国主義者でない「普通」の日本人による抑圧の描写は、冒頭で述べた朝鮮人への迫害を他人事として扱う傾向がカタストロフィへの道のりである事を、朝鮮人の主体化は日本で朝鮮人として生きる事には難しさと解放の契機の両者が内在している事を示唆する。朝鮮人として生きる事に難しさが生じる要因は、日本人の無関心と抑圧にある事は自明である。この演劇の二つの軸は、朝鮮人の解放とその上での連帯がどのようになされるべきかを訴えているように思える。日本で戦後から一貫して、最近の事例で言えば、ウトロの放火事件や京都朝鮮学校襲撃事件に代表されるように、100年前の戒厳令が敷かれた東京での悲劇が全国的に再現されている。このような状況下において、『叫びの上に』で表現された悲劇は日本人と朝鮮人の両者に今の自分達の位置付けを再考させる。(東海林千里)
2022年9月29日木曜日
『狼をさがして』上映会参加者の感想①
9/24に『狼をさがして』上映会を私たちで企画した。台風の影響で、話を伺う予定だった支援連の平野さんの到着に遅延が発生するなどトラブルもおきたが、映画や平野さんのお話、それをめぐる討論などが活発に行われた。秋中に発行予定の『レーテ』vol.3において詳細報告記事を掲載予定である。さしあたり、参加者の感想を以下掲載する。
☆「狼を探して」上映会とその後の討論会の感想について(k)
私は今回,「狼を探して」という映画の上映会に参加した.この映画は,過去,東アジアに対して新植民地主義的経済侵略を行う日帝企業を連続で爆破していった東アジア反日武装戦線について描いた映画である.この映画を上映した後の討論会では,なぜ,彼らは,連続で企業を爆破するという,人民の命すらも軽視するような計画を実行してしまったのか?ということが討論になった.その討論の中で,そのような爆破事件があった1970年代は,高度経済成長により,日本社会全体が豊かになっていっているため,彼らは,そのような中で労働者人民を組織化し,プロレタリア革命を起こしていくというようなレーニン主義的な革命論に諦めを感じ,焦ったために,そのような計画を実行してしまったのではないかという意見が出た.確かに,その理屈は一理あると思ったが,その理屈に則ると,新自由主義により,社会全体が貧困化している日本の現状は,レーニン主義的な革命が起こしやすい状況であるということになる.しかし,現状,そうなっていない.それどころか,現在の日本は,そのような貧困に対する不満の声を自国の資本家ではなく,他国の人民に向けさせるような策動を右派だけでなく,リベラルもまでもが行い,そのような策動を多くの日本人民が支持して,明らかに日本社会全体は右傾化している.そのような状況の中で,時代背景は違うものの,日本人民に対する諦めを感じているという点では,私と東アジア反日武装戦線は共通しており,私自身,労働者の組織化という過程をすっ飛ばして,そのような計画を実行したくなる気持ちは痛いほどわかった.しかし,東アジア反日武装戦線のメンバーの1人である大道寺将司さんは,連続企業爆破の1つである三菱重工爆破事件について思想的な未熟さがあったと自己批判している.私は,そのような大道寺さんの自己批判を通して,日本人民に対する諦めがあったとしても,彼らと同じ轍を踏むべきではないと思ったし,今回の上映会と討論会は,そのような戒めを再確認するためのいい機会となった.
2022年9月6日火曜日
キム・ミレ『狼をさがして』上映会+トークのお知らせ
☆キム・ミレ『狼をさがして』上映会+トーク企画
1970年代に爆弾闘争をもって戦争/戦後責任、新植民地主義といった日本の現在と過去を問うた東アジア反日武装戦線。そのメンバーと周囲の足跡を追ったドキュメンタリー映画である『狼をさがして』(キム・ミレ/2020)の上映会を、『狼をさがして』上映運動事務局の提起するミニ自主上映会運動のよびかけに応えて、関西コミュニズム研究会で9月24日(土曜日)に企画する。そして、上映とあわせて、この映画にも出演しており、武装戦線の獄中者救援活動に長年携わってきた平野良子さん(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)のお話を伺いつつ、感想交流・討論を行っていく。
☆「機関銃のように言葉が必要だ」
今日の情勢において、例えば安倍晋三前首相への「私闘」から大きく話題となった統一教会をめぐって政敵への<反日>という言葉が、もはや「ネトウヨ」にかぎらず氾濫している。ここには朝鮮半島への蔑視さえ反映されている。この使い方が、自ら<反日>を名乗った東アジア反日武装戦線とは大きく異なるのはいうまでもない。戦争ー戦後責任を曖昧にしたまま、米中対立を背景に独自の軍事化を日本が進めている今、改めて武装戦線の、日本とアジアの関係への問いを再検討する必要がある。また、戦線が直接攻撃=虹作戦を計画した天皇制は依然として存続し、入管体制や獄中者処遇改悪といった社会の監獄化がすすんでいる。さらに、武装戦線メンバーは死刑・重刑の下、何十年も獄中におかれている。上映会や討論を通して過去のみならず、以上のような現在を問う契機としたい。
ところで、1980年代から現在でも上映運動が続けられており、東アジア反日武装戦線とも接点のある寄せ場の闘いを撮ったドキュメンタリー映画『山谷(やま) やられたらやりかえせ』について、監督・山岡強一は「この映画には、機関銃のように言葉が必要だ」と述べたという。『狼をさがして』上映会も、「機関銃のように」言葉を交わし、過去と現在、見るものと見られる側、語る側と語られる側の、共同作業を進める可能性をさぐる機会ともなれば幸いである。
(関西コミュニズム研究会・u)
2022年9月8日加筆修正
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上映会案内ビラ※会場収容人数に制限がありお申込みいただいても断らせていただく場合があります