『叫びの上に』(留学同京都総合文化公演2023)を観て
関東大震災が朝鮮人と日本人にとって、つまり各々の歴史において全く異なる位置付けにある事はもはや言うまでもない。日本人にとっては、防災の重要性を啓発する教訓として、朝鮮人にとっては、決して忘れる事のできない日本人社会や国家の暴力の発露として、記憶されているはずだ。関東大震災から100年目となる現在、この認識の差異は益々強くなっているように感じる。歴史の否定や「井戸に毒」のSNS上でのミーム化を鑑みれば、あの時、朝鮮人や中国人に降りかかった暴力は、日本人にとってはもはや他人事になっていると言っても過言ではない。この演劇『叫びの上に』は、日本社会におけるニヒリズムや忘却の蔓延によって開いた日本人と朝鮮人の認識の空隙を埋め、歴史の改竄や閉鎖的な日本史から再生産される暴力に抑圧される朝鮮人に勇気を与えてくれるように私は感じる。
この演劇は、主に、朝鮮人の民族性の回復、解放が主題として描かれている。演劇の主人公、キム・アムスは東京のとある飯場へ食い扶持を求めやってくる孤独な労働者。彼は、両親を3.1独立運動の弾圧によって、仲間の労働者を信濃川虐殺事件によって失ったので、朝鮮人である事にトラウマを抱いていた。しかし、演劇の前半を通じ、飯場の労働者である独立運動家の学生や飯場の住人であるリ・スナとの出会いと夜学での朝鮮語学習を通し、朝鮮人としての自己を受け入れられるようになる。しかし、このような幸せな時間は長続きしなかった。演劇の後半では、関東大震災での虐殺が描写される。これにより、彼の仲間であった運動家は軍人に「取り調べ」のため拉致され、リ・スナは自警団に虐殺される。アムスも自警団の一員に追い詰められ、「15円50銭」と言うよう強要される。しかし、アムスは朝鮮人である事を判別する合言葉を発することなく、朝鮮人である事に「開き直る」。彼はその後、襲撃をかわし、その場にへたり込んでいた別の自警団の人間に「毒を撒き、火を放ったのはお前ら日本人だ」と言い、その場を去る。
このように主人公アムスを中心とした物語は朝鮮人の解放が軸となっている。日常的にヘイトスピーチやヘイトクライムに晒され続ける朝鮮にルーツを持つ人々にとって、この物語はフィクションではあるが、抑圧とそれに対抗する主体化の過程をはっきり描いているという点において、この上なくリアルで切迫したものに映る。
ただ、この演劇で重要な役割を果たしていた人物がもう一人いる。労働者であり社会主義者でもある日本人のカワイだ。彼はこの演劇においては、主人公格でもないし、アムスと深い交流を持つわけでもない。また、日帝の中枢に位置するような人物でもない。しかし、彼の存在は昨今の在日コリアンを取り巻く不安定な情勢を考えると、重要であるし、この演劇のもう一つの主題のように思える。
カワイは、社会主義者としての立場上、前述した独立運動家の学生から幾度も、日本の無産階級と被抑圧民族としての朝鮮人の連帯のため、運動において、朝鮮人と日本人の戦線を組むよう懇願される。しかし、彼は何の迷いもなくその要望を断り続ける。曰く、「自分達は今の立場をコツコツ努力して積み上げてきたが、その成果を朝鮮人の運動のために消化したくはない。同じ無産階級でも日本人と朝鮮人を取り巻く環境は違うから、お前らはお前らで運動をやれ。植民地支配は国家権力が全て悪いのであって、自分達に対し、連帯を受け入れないからといって、糾弾してくるのは筋違いも良いところだ。第一、朝鮮人の運動は過激で、後先を考えられていない。」(大体こんな感じ)。彼の言表からは、典型的な「停滞論」に代表されるような朝鮮人蔑視が滲み出ている。また、無産階級である事を理由に民族・人種間の間に交差している権力を認めようとせず、全て資本家階級や国家権力の問題に収斂させる。特に、資本論を読む独立運動家からそれを取り上げ、「ほぅ、資本論を読むとは、感心だな」と偉ぶった態度を取るシーンは、階級内の亀裂をマイノリティが日頃から感じる違和感として、絶妙に表現している。社会主義者カワイには彼にとっての「聖典」である資本論こそ絶対であり、交差する権力には見向きもしない。これらの不快な見下した発言と態度によって、日常の中の差別に翻訳されるこの不正(交差した権力)という階級内の分断を、この演劇は告発するのだ。
話を戻すが、この演劇ではこのように批判的焦点は日帝の権力者だけでなく、抑圧民族としての日本の社会主義者にも当てられる(普通の日本人でなく、社会主義者という部分にこだわりを感じる)。そして、この抑圧民族としての性格は演劇後半、つまり大震災直後の描写で悲劇的な形として発露する。カワイも自警団に加わるのだ。行政的な力が優先される戒厳令下の東京では、朝鮮人が敵として中枢を起点に、喧伝され、民衆の人種主義的なイデオロギーが軍隊と共に組織された。そして、カワイも間接的に、無意識にであれ、国家権力に動員された。劇中において、彼にとって、目の前の朝鮮人を殺す事と狭義の意味での労働者の闘争を貫徹する事は矛盾しない。しかし、そこに抑圧民族としての自己に向き合わない人間の、権力(国家だけでなく構造も)になし崩しに客体化されるという意味での脆さがあるのではないだろうか。戦後、在日コリアンや中国人を主権の外に置き、排除する事によって、国民国家としての「同質性」を強化した日本では、日本人の中のこの脆さが一層顕著になったように思われる。しかし、この脆さに無関心な日本人は多い。左右を問わず、「反差別」を公言しているかどうかを問わず。この演劇におけるカワイの存在は、このような日朝の連帯の妨げとなっているものを明らかにする。
以上のようにこの演劇には日本人によるマイノリティへの抑圧と朝鮮人としての主体化という2つの軸がある。帝国主義者でない「普通」の日本人による抑圧の描写は、冒頭で述べた朝鮮人への迫害を他人事として扱う傾向がカタストロフィへの道のりである事を、朝鮮人の主体化は日本で朝鮮人として生きる事には難しさと解放の契機の両者が内在している事を示唆する。朝鮮人として生きる事に難しさが生じる要因は、日本人の無関心と抑圧にある事は自明である。この演劇の二つの軸は、朝鮮人の解放とその上での連帯がどのようになされるべきかを訴えているように思える。日本で戦後から一貫して、最近の事例で言えば、ウトロの放火事件や京都朝鮮学校襲撃事件に代表されるように、100年前の戒厳令が敷かれた東京での悲劇が全国的に再現されている。このような状況下において、『叫びの上に』で表現された悲劇は日本人と朝鮮人の両者に今の自分達の位置付けを再考させる。(東海林千里)